STORY

和紙の布

生活の基礎である衣食住、その中でも衣類の素となるのが「布」だ。大阪府阪南市にこの「布」の開発に情熱を注ぐ職人がいる。(株)和紙の布 代表取締役社長・阿部正登さんだ。

実は阿部さん、環境に優しく、とても軽く、抗菌性に優れ、紫外線から体を守ってくれるという、現代人にとっては夢のような布を開発したすごい職人である。原料となる繊維は「和紙」。わかりやすくいえば、紙から布を作ったのである。

布とは、いわゆる織物(テキスタイル)である。縦糸と横糸があってそれを織りあわせて製品となるわけで、糸の原料としては綿や毛や絹が代表的なものとして挙げられる。阿部さんは、その原料として日本に古くから伝わる「和紙」に注目し、革新を起こしている。

「和紙の布」誕生の物語は、戦後の高度成長期のまっただ中である1962年に阿部さんの父親が阿部織布という会社を起こしたことに始まる。当時の大阪(特に泉州地域)は全国で3本の指に入る綿織物の産地であり、全盛期にはなんと700を超える企業が存在したそうだ。

しかし、時代は移ろい1990年代に入ると「MADE IN CHINA」をはじめとする海外の安価な商品が流通しはじめ、市場は変化していった。当時のことを阿部さんはこう振り返る。「最初は怖くなかったんです。“安かろう悪かろう”の部分もあったし、商品としては当然消えていくだろうと。ところがね、20年くらい前から“安いけれど良い”になってきて、百貨店などで売られる商品の95%以上が中国製になっていったんです」。

「MADE IN JAPAN」の商品が姿を消していく中、周りの会社は次々と廃業や倒産に追い込まれていき、700以上あった同業者は気づけば20数社に数を減らしていたそうだ。そんな逆風の中、2001年に阿部さんはある決意をする。

「海外からいろんな商品が入ってくる中、このままじゃ本当にダメだと思いました。そして、悩みに悩んで私は和紙を選んだんです。なぜか? “原料がとても高かった”からです。輸入に頼っていた綿に比べれば、当時の金額で16~17倍くらいのコストがかかりました。海外の企業を含め、みなさん手が出せない素材だったんです」

地場産業である繊維事業の生き残りを賭けて、泉州男の反骨心を示すかのような、いわゆる“逆張り”に打って出たのである。

「僕らは規模が小さいから、付加価値をつけるために原料の高いものを選ぶしかなかったとも言えるかもしれない。まぁ、そんなわけで開発を始めたんだけど、やっぱりすぐは売れなかった。お金が掛かりすぎて家族みんなから、ええ加減やめてくれって言われながら作ってました(笑)。相当苦労しましたよ。ちゃんと売れ出したのは5年くらい経ってからかな」

阿部さんはとにかく「和紙で織物をつくる」という目標に向かって突き進んだ。競合が手を出していない分野への挑戦、という経営者としての戦略的な判断はあったが、一方で、消費者が本当に安心して着られる自然な素材を作りたいという職人としての技術的なこだわりもあった。さらに自然をもっともっと大切にしたいという観点からも、日本古来の素材である和紙に阿部さんは大きく惹かれていたという。

4年の歳月をかけて開発した結果、従来の布にはない特徴をもつ天然の和紙繊維が誕生した。それが冒頭に記した“環境に優しく、とても軽く、抗菌性に優れ、紫外線から体を守ってくれる和紙の布”なのである。

「縦糸も横糸も100%紙で織れるというところは私たちの強みです。他の企業で紙を原料に使い始めたところもあるけど、横糸はともかく、紙の縦糸を用意する技術はそうそう無い。たぶん僕が一番早く技術として確立したはずです」

生地というものは、普通は商品ありきで作られる。でも阿部さんの場合は、先に生地が生まれた。そういった背景もあって、「和紙の布」はその魔法の性質に合わせて自由な発想で商品化が進められている。例えば、和紙の布は紫外線を100%遮断できるのだが、あとからUV加工剤のような化学品を足すことで加わった性質でないため、何回洗っても性能が落ちることはないそうだ。まさに天然素材の魅力である。今や和紙の布は衣類の枠を超え、帽子や日傘といった雑貨にも姿を変えている。

「自分は機織(はたおり)職人だから生地を売ってなんぼと思ってきたんだけど、生地を売るために形は何でもいいのかもしれない。今はそう思ってプロモーションしています」

目を輝かせながら話す阿部さんは、実は今、さらに新しい糸の開発を深化させている。日本初となる間伐材100%の和紙を利用した「木糸(もくいと)」の生産である。森林を守るために必要な作業である間伐をも有効活用しようというのだ。

経営者と職人、2つの異なる顔をもつ阿部さんと和紙の布の挑戦は、まだまだ続く。

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